LOGIN柊坂真白は、自分が待つのが得意な人間ではないと思っていた。
いや、正確には、待たされるのが嫌いだ。 連絡が遅いのも嫌い。 曖昧な返事も嫌い。 来るのか来ないのか分からない予定も嫌い。 そういう“相手の都合に気分を引っ張られる感じ”が、昔からあまり好きではなかった。 だから本来なら、久瀬湊人みたいなタイプは、いちばん苦手な部類のはずなのだ。 何か言えない予定がある。 時々急にいなくなる。 でも来たい気持ちだけはちゃんとある。 そういう、待つ側に少しだけ期待を残す人間。 面倒だ。 本当に面倒だと思う。 なのに最近の真白は、その面倒から完全に降りることができなくなっていた。 知らないふりをして、どうでもいい顔をして、勝手に向こうがいなくなるのを見送る。 たぶん前の自分なら、それができた。鳴海すばるは、期待しすぎないようにしようと決めるのが、わりと下手だ。 もっと正確に言うなら、決めること自体はできる。 でも、その決意を守りきるのがあまり上手くない。 明日の金曜打ち上げについても、そうだった。 期待しない。 来られたらラッキーくらいに思う。 来られなくても仕方ない。 最近はいろいろあるっぽいし、そこを無理に明るく踏みにじるのは違う。 そこまではわかる。 頭ではかなりわかる。 でも、心とオタクの神経が、そういう賢い距離感を守ってくれない。 久瀬湊人が「行くつもりでいます」と言った声とか、 文化祭の日に聞いてしまった数秒の温度とか、 “ちゃんと来たいのに、来られるか分からない人”の気配とか。 そういうものを一度拾ってしまったあとでは、 “別に期待してませんけど?”みたいな顔をするのは、かなり難しい。「……いや、しないけど」 朝、自室の鏡の前で前髪を軽く整えながら、すばるは小さく呟いた。「しないけど、来たらうれしいのはしょうがなくない?」 誰に向けた言い訳かは、自分でもよくわからない。 でも、それくらいにはもう、明日のことを意識してしまっていた。 ◇ 教室へ入ると、文化祭明けと打ち上げ前が混ざった独特の浮つきが、まだそこにあった。 日野が前の席でスマホを見ながら「級長、まだ店の最終返事来てないっぽい」と言っている。 真白は「朝からその話しかしないの」と呆れているが、完全に無関心という顔でもない。 紬希は少し静かで、でも今日は昨日より表情がやわらかい。 そして、久瀬もいる。 いる。 それだけで少しだけ安心してしまう自分が、すばるはやっぱり面倒だった。「
倉科紬希は、自分が言葉を飲み込む方の人間だとよく知っている。 言えないわけじゃない。 ただ、言う前に考えてしまう。 これを言ったら相手は困るかな、とか。 今ここで言うほどのことかな、とか。 言わない方が空気がきれいに流れるなら、その方がいいかもしれない、とか。 そうやって選んでいるうちに、言葉は少しずつ自分の中へ沈んでいく。 そのやり方で、今まで困ったことはそこまで多くなかった。 少なくとも、自分一人が少し我慢すれば済む話なら、それで十分だった。 でも最近は、その“飲み込む”が少しだけ苦しい。 理由はわかっている。 久瀬湊人に対してだけ、言いたい言葉が前より増えているからだ。 来てほしい。 一緒にいてほしい。 打ち上げにも、普通に、ちゃんと。 でも、それをそのまま言ってしまったら、この人はたぶん困る。 困るどころか、自分の事情とこっちの期待を天秤にかけて、余計に苦しい顔をする。 だから言えない。 言えないまま、待つことになる。 その静かな待ち方が、思っていたよりずっと恋に近いのかもしれない――と、最近の紬希は感じ始めていた。 ◇ 金曜の打ち上げが近づいた木曜の朝、教室の空気は少しだけ落ち着かなかった。 文化祭の余韻そのものは薄れてきている。 でも“明日、ちょっと集まる”というだけで、高校生の教室は簡単に浮つく。「だから店はもうここでよくない?」 すばるが朝からスマホを見せている。「近いし、安いし、なんか無難に楽しそう」「“なんか”で決めないで」 真白が言う。「しかも安さと楽しさを同列に語るの雑」「だって大事じゃん」「それはそう」
御門朱莉は、楽しそうな空気の中心にいる人間より、その少し外側にいる人間を見る方が好きだった。 輪の真ん中で笑っている人間は、だいたい分かりやすい。 今が楽しいとか、注目されたいとか、自分の言葉がどれくらい届いているかとか、そういうものが表へ出やすい。 でも、輪の外側一歩分の位置にいる人間は違う。 自分から前へは出ない。 なのに、その場へ混ざっていたい気持ちだけは、ふとした瞬間に顔へ出る。 しかも本人は、それを隠せているつもりだったりする。 そういう人間の方が、見ていてずっと面白い。 だから金曜の打ち上げがほぼ決まり、クラスの空気が少し浮つき始めた頃から、朱莉は二年三組の前を通るたび、ほんの少しだけ意識していた。 久瀬湊人が、その空気の中でどんな顔をしているかを。 ◇ 昼休みの終わり際、教室の前を通ると、ちょうど扉が半分開いていた。 中ではいつもの窓際の一角に、あの面々が集まっている。 日野がスマホを見せながら何か笑っている。 鳴海すばるが大げさに反応し、柊坂真白がそれを冷静に切る。 倉科紬希は少し控えめに笑っていて、その笑い方が前よりずっと自然だ。 そして、その少し外側に久瀬湊人がいた。 相変わらず、自分から真ん中に出る感じではない。 でも、完全に外から見ているわけでもない。 輪の中へちゃんと気持ちは入っているのに、立ち位置だけが半歩引いている。 その半歩分の距離が、朱莉には前よりずっと面白く見えた。「……へえ」 小さく呟く。 少し前まで、あの男は学校を“うまくやり過ごす場所”として扱っているように見えた。 目立ちたくない。 深入りしたくない。 でも、最低限は整えておきたい。 そんな感じだ。
金曜日が近づくほど、教室の空気は少しずつ浮いていった。 文化祭そのものはもう終わっている。 装飾も外され、段ボールも片づき、教室の見た目だけならすっかり元通りだ。なのに人の会話だけがまだ完全には日常へ戻らない。 文化祭どうだったとか、 あの時の写真がどうとか、 どのクラスの展示がよかったとか、 打ち上げの店どうするとか。 そういう話題が、朝にも昼にも、放課後前にも自然と混ざる。 そしてそのたび、久瀬湊人の胸の奥には、あの薄い棘がまた少しだけ動いた。 金曜の夕方。 打ち上げ仮決定。 でも家側からは、金曜夜についても予備待機の可能性ありという連絡が来ている。 まだ確定ではない。 それがいちばん厄介だった。 来られるかもしれない。 でも来られないかもしれない。 この“かもしれない”が、最近の自分と窓際の空気の相性をどんどん悪くしている気がする。 来たい、とは本当に思っている。 思っているから、曖昧に濁すたび自分の方が削られる。「……向いてないな」 朝、駅から学校へ向かう道の途中で、湊人は小さく呟いた。 文化祭準備もそうだったが、こういう“みんなで何かをする予定”は、秘密を抱えた人間にあまり向いていない。 しかも今の自分は、その予定に混ざりたいと本気で思ってしまっている。 そこが一番まずい。 ◇ 教室へ入ると、いつもの窓際の空気はすでに半分できていた。 日野が前の席からだらっと振り返り、 すばるが「今日こそ級長に店の候補聞く」と息巻き、 真白が「朝からうるさい」と刺し、 紬希がその
倉科紬希は、誰かを待つこと自体は嫌いではない。 電車を待つ時間も、 図書室で借りたい本の返却を待つ時間も、 夜に好きな配信が始まるまでの数分も、 どちらかと言えば静かで好きな時間だ。 でも、“来るかもしれない人”を待つのは少し違う。 来ると決まっているなら落ち着ける。 来ないと分かっているなら、最初から心の置き場所を決められる。 いちばん困るのは、そのあいだだ。 来るかもしれない。 でも、来られないかもしれない。 そういう人を、最近の自分は待ってしまう。 そしてその“待ってしまう自分”が、前よりずっとはっきり見えるようになってきた。 金曜の打ち上げ候補日が近づく水曜の朝、紬希は駅から学校までの道を歩きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。 久瀬湊人は「行くつもりでいます」と言った。 その言い方は以前より少しだけ本気で、でもやっぱり完全な断言ではなかった。 責めたいわけではない。 むしろ、そう言うしかない事情があるのだともうわかっている。 わかっているからこそ、困る。 来てほしい。 でも、その言葉をそのままぶつけたら、この人はたぶん余計に苦しい顔をする。 だから言えない。 言えないまま、自分の中だけで待つことになる。「……よくないな」 小さく呟く。 好きかもしれない相手を待ってしまう。 しかも、来てほしいとちゃんと言わないまま。 それはたぶん、かなりよくない状態だ。 ◇ 教室へ入ると、久瀬はまだ来ていなかった。 それだけで、胸の内側がほんの少しだけざわつく。 まだ早い時間だ。 遅刻でも何でもない。
鳴海すばるは、自分のことを“わりと人の気持ちがわかる方”だとは思っていない。 空気は読む。 流れも読む。 でも、それはどちらかと言えばオタクとして鍛えられた観察眼の副産物みたいなものだ。 配信で今どのコメントを拾うべきか、 コラボで誰が一歩引いたか、 雑談で声の温度が少し落ちたか。 そういう“見える変化”に敏感なだけで、別に人の心の機微へ特別強いわけではない。 だから今の状況は、かなりしんどい。 真白みたいに「今日は顔がこう」と切り込めるわけでもない。 紬希みたいに、静かに近づいたまま黙っていられるわけでもない。 日野みたいに、わからないところをわからないまま流して空気だけ軽くする器用さもない。 そのくせ、耳だけは無駄にいい。 久瀬湊人の声が、どうしても“あっち側”に引っかかる。 言葉そのものではない。 もっと細かい、間とか、落とし方とか、相手を止める時のやわらかさとか、そういうものだ。 決めつけたくない。 でも、決めつけないままでいるには、自分の耳はあまりにも好きすぎる。「……ほんと、向いてないな」 朝、駅から学校へ向かう道を歩きながら、すばるは小さく呟いた。 向いてないのは、秘密を抱えた相手へ距離を取ることだ。 しかもその相手が、もし本当に推しと近い場所にいるのだとしたら、なおさら。 ◇ 教室へ入ると、久瀬はもう来ていた。 最近はそれだけで少しだけほっとする自分がいる。 文化祭のあとから、その感じは少し変わった。 前はただ「いるな」で済んでいたのに、今は「今日はいまのところ、ここにいるんだ」と思ってしまう。 それはたぶん、真白や紬希も同じなのだろう。 みんな少しずつ、